精神障害者への差別解消の難しさ、障害と人格の分離・識別が困難を極めるって点にあると思うんですが、いわゆる発達障害者も同じで、障害の態様が人格の問題と区別することが大変難しいだけに、それが障害者として福祉の対象になることを憎悪している人、潜在的にはスゲー多い気はするのよね……。
— あきひろ (@Werth) June 24, 2019
私自身は、発達障害であるかそうかの診断は受けていない。ただ、診断を受ければなんらかの診断名は貰いそうだし、というかそもそも「普通」に生きることができなかった欠陥品なので仮になんらかの診断名がついても驚かない。
で、自分が「欠陥品」であることで人格が否定され、相模原やまゆり園植松理論により自分が処分粛清される可能性、というのは自分の頭に常に付きまとっていることである。自分はどうあがいても植松某の立場になることはない。そうではなく植松某に「処分」される側だ。
こんな自分が生きることを「世間様」に「お許しいただける」のはあと何年だろう?社会も世間も「普通」の人たちも日々変わっていくのだ。そういった人たちの「お情け」がなくなった時、自分は生き続けることができるのだろうか?銭の問題とは別に、そういった問題とも向き合わないといけないのが自分の現状なのだ。