普通の人間にすらなれなかったお荷物ビジネスパーソン日記

「普通」の人間にすらなれなかったお荷物会社員の日々 / いわゆる「氷河期世代」 / 惨めに野垂れ死にたくない

「社会のお荷物」が「世間様」からどう扱われるか

 

  私自身は、発達障害であるかそうかの診断は受けていない。ただ、診断を受ければなんらかの診断名は貰いそうだし、というかそもそも「普通」に生きることができなかった欠陥品なので仮になんらかの診断名がついても驚かない。

 で、自分が「欠陥品」であることで人格が否定され、相模原やまゆり園植松理論により自分が処分粛清される可能性、というのは自分の頭に常に付きまとっていることである。自分はどうあがいても植松某の立場になることはない。そうではなく植松某に「処分」される側だ。

 こんな自分が生きることを「世間様」に「お許しいただける」のはあと何年だろう?社会も世間も「普通」の人たちも日々変わっていくのだ。そういった人たちの「お情け」がなくなった時、自分は生き続けることができるのだろうか?銭の問題とは別に、そういった問題とも向き合わないといけないのが自分の現状なのだ。

年功序列レールにすら乗れなかった会社員のマネー事情

 まず、身もふたもない現実を示す。

 普通に年功序列レールに乗って給与収入を上げるほうが継続して大量にお金を得ることができる。給与の少なさを投資でカバー、はできないとは言わないけどギャンブル性が高いし効率悪い。「普通の人」なら誰でもできる年功序列レールに乗るほうが、何も考えずに簡単に着実に資産は増える。

 しかも、投資をするにしても、元手が多いほうがリターンも大きい。多い元本を準備できるのが投資をするのには有利。100万円の1%は1万円だけど、1億円の1%は100万円。

 年功序列レールに乗れなかった、だから投資で一発逆転!は危険だ。もちろんリスクの取り方は人それぞれ。(じゃあどうすりゃいいんだよ!!!)

  時間はもう戻せない。周囲を気にするのはやめて、自分が死なずに生き延びるためにはどうすればいいか、に集中しよう。

 

 

 しかしねえ、本当に惨めったらしいよ。少ない手持ちからちまちまと株や債券や投信につぎこんでいるけど、でもこれって普通に年功序列レールに乗れてりゃこんなのよりはるかに速いペースで資産増えているよなあ、という。

 まあ、自分がそうであるように、環境に適応できない奴はどうあがいたってできなくて年功序列レールにすら乗れないという現実があるのだから、リスクとリターンの効率を少しでも良くするために色々考えよう。年功序列レールにすら乗れなかった欠陥品不良品にはそれしかないのだ。

いじけている間に若年ボーナスを失い、自分より若い人にどんどん追い抜かれていく

 隣の課の人たちは若い人たちが多く、活気がある。

 自分より年下の人が中間管理職をし、自分より若い人が昇格試験を受けていた。おそらくその人も中間管理職になるのだろう。そして、更に若い人たちも、いずれ自分より早く昇格するのだろう。

 自業自得といえばそれまでだが、若くてアドバンテージのある時期を卑屈にいじけて過ごしてみすみす無駄にした自分はもう手遅れだ。中間管理職になれるかすらわからない。昇格試験は若い受験者のほうが有利らしい。まあ会社の側の立場から考えればそうなる。

 メンタル疾患で人事経歴に決して消えない傷をつけ、そして卑屈になってしまい復帰後もトラブルや詰められることに怯えて十年ちかくをみすみすドブに捨ててしまった自分の人生を振り返る。卑屈にいじけてドブに捨てる期間をもう少し短くできなかったのだろうか?と。まあ、十年を経て色々体験して考えた末に今に至るわけだし、「ドブに捨てる期間をもう少し短くできなかった」から今こうなっているわけだし。

 メンタル疾患で社会人として躓いたとき、卑屈な思いを抱えたのと共に「これ以降の自分の人生はもう”余生”なのだ」と思ったことを覚えている。当時は自分も若手で年齢の近い人もみんな下っ端だった。だからいじけていてもあまり差はついていなかった。

 しかし、年月を重ねると、周囲の年の近い人はどんどん昇格していくし、いじけて足がすくんでいる自分は病歴云々以前の問題として昇格なんてできないし、若いからと大目に見てもらえた時期もいつしか終わり、そして若年ボーナスを持った若い人がどんどん自分を追い越していく。

 「もう余生なのだ」と決めいていた若かったころの自分が今の自分をみたらどう思うだろう。まあ笑うんだろうな。「若年ボーナス」をまだ自分が持っていたことも理解できていなかったのだから。

「普通」になれず悔しかった

 田村美葉氏による記事。
 「普通」に振舞えないことの苦悩が綴られている。読んでいるこっちも辛くなる。「普通」にさえなれないことの辛さ、というのは共感を得づらいものなのかもしれない。

 せめて「普通」になれれば、なぜ「普通」にすらなれないのか。

劣等感の心理

 職場で他人を見ていると、自分以外の他人はきちんと仕事をしている。少なくともきちんと取り組んでいるように見える。

 それに引き換え自分は…という思考になってからもう何年経っただろうか。十年以上そんな卑屈な精神状態で生きている。自分がまだ若手で年数が上の人ばっかりの頃はまだよかったが、どんどん若い人が入ってきて若い人が着々と経験を積み、そして自分を追い抜いていく。これ、かなり惨め。

 そして焦りが生まれる。しかし、じゃあ自分は今からどうすればいいのか?今更頑張ったってもうダメだろ。給料も職位も上がらないよサラリーマンは一度失敗したら終わりなんだから…という思考がグルグルし、結局足がすくんで動けない。

 今思うことは、ダメでもいいから目の前の仕事にきちんと取り組もう。辛いことや責任から逃げるのではなく、周囲のように時に適当にやり過ごせばよかったんだ。みんながやってるように「普通」に振舞えば、それが無理ならフリだけでもしてればよかったんだ。これがあと五年くらい早く気づければまた違ったのではないか?

 こうして自分の惨めな人生は続いていく、のだけれど、何周回遅れになるかわからないけど今からでも目の前の現実に取り組めるのかな、という心境にもなっている。

 「みんな」は意外に「いい加減」であり、それが「普通」であり、「普通」であればそれなりにマシなレール(今の自分よりははるかに良いレール)に乗り続けることができるみたいだ。

メンタル疾患と運動

 借金玉氏の連載記事。

toyokeizai.net

 

 運動に関して、上記記事にある借金玉氏のコメント。

 

もちろん、ランニングも筋トレもうつの回復にポジティブな影響をもたらすものだと思いますが、順番が違います。やりたくなるまでは、無理をしてはいけません。

 

 私も体験しているのだが、追い詰められたらそもそも身体を動かす気力すら失われるし、無理して体を動かしても(それが散歩程度の軽いものであっても)、頭の中は不安や恐怖がグルグルしててまともな状態ではない。

 で、この辺を勘違いしている人がいる。週末に体を動かさせれば良いのだ、と考えてしまう人が。

 「気分転換には軽い運動が良い」というのと「軽い運動をさせれば日頃仕事で詰めてもいい」は全く違うのだが、それを理解できる能力のない人がいる。週末に軽い運動すらできなくなるほど部下を詰めておきながら、週明けに「土日歩いたか?なんで歩かないんだ!おいどうして歩かないんだよ!」とか真顔で言ってしまう人だ。自分自身が「効率的に部下を追い詰めて精神疾患にするテクニック」を行使していることに気が付かない。追い詰める側は痛くも痒くもないが、追い詰められる側はたまったものではない。

 もちろん、そういう理解力想像力のない人生を送ったまま一生を終えられるほうがQOLが高いのは言うまでもない(周囲にいる人のQOLは知らないが)

 私も理解力が低いまま一生を終えたかった。どうしてそうなれなかったのか。

年功序列のレールには乗っておけ。しがみついてでも。

 会社によると言われればそれまでだが、なんだかんだで年功序列な部分が残っている会社は今でもあるものです。

 で、年功序列のレールに乗るのは実は自分が思っていたほどには難しくない、と思っている。「普通に」やってりゃいいんです。

 わかってなくてもわかっているフリをする。ハッタリをかます。失敗して怒られても気にしない(気にしても無駄)。人の目や評価は認識しつつもあまり深刻に引きずらない。

 まあ、普通の人間にすらなれなかった欠陥品にはそれすらできずに負のスパイラルに嵌まってくわけだが。

 メンタル崩してちょっと乗り遅れても、腐らずいじけず淡々と過ごしましょう。仕事をしているフリくらいはしましょう。ヒラのうちはそれで充分なのです。誰も教えてくれないけど。

 あと、完璧主義は自分の足を引っ張るので注意。みんな割とテキトーでいい加減です。「自分は完璧主義じゃない」と思っていても、自分じゃ気づかないものです。精神が疲弊している時は特に。